なぜ人はアートな表現をしたいと思うのでしょうか
- 創作活動の本質はどこにあるのでしょうか?-




絵画の表現はどのように学べるのでしょうか?



アート表現における「独習」というのは大変おこがましい表現です。ただ言い訳がましく説明させてもらうと、キャンバスに向かう時、向かっている時、その時々で、関連するテーマに引かれるように過去に美術館や画集で見た絵が浮かび上がってきてしまうのです。
 自分の描きたいもののイメージが自分の中ではどうしても動かない、膨らまない時など、相談する相手もいない孤独な身の私としては、「かの有名なセザンヌはどんな色で白い花を描いたのだろうか」と思っては、画集に頼ってしまわざるを得ないのです。「プロの絵描きは描き始めたらまっしぐらに自分のイメージの中に没入するだろうになー」と思いつつも、画集を開いたりネット検索をしてしまうのです。壁に当たって初めて偉大な画家の偉大さを思い切り知ることになるのです。学びが行き当たりばったりだと言われればその通りです。
 美術史もろくに知らない人間にとっては、画家がカンバスに残した色こそが、絵画史上の偉大な一歩であることを後になって初めて知る羽目になるのです。「なんと白ではなくブルーこそが白を白にしているいるのだ!」といったように、「大発見」だと言って、絵を知らない同居人に吹聴しまくっていただけのことなのです。でもこの「大発見」を繰り返してきたことで、大変楽しい学習ができたのです。恥ずかしいことですが、「印象派は影をブルーで作る」という解説を読んでもピンとこなかったことが、自分の「発見」で「あーそういうことだったのか」と腑に落ちるわけです。
 体系的な美術教育を受けたわけでもないのですから、描きたいもののお手本は「自然の野の花や、木々や空だ」と言っていればいいかもしれません。かっこよく。でもそれだけでは、才能の貧しさ故か、絵に落とし込めないのです。例えば美しく色づいたもみじを描いて見たいと思ったら、もみじの木を一本描けばいい、だけでは絵にはならないと思います。
 紅葉した山に残された緑を枯れ木をどのように描いていくか、日本の山の美しさを描き尽くした東山魁夷先生の画集を開かずにはいられないのです。先生の画集を開いては似たような絵を探し構図を真似してみては大失敗するという試行錯誤を繰り返してきました。そして東山先生の絵がどんな工夫と苦労をして日本の山の一瞬を切り取って造形しているのかその緻密で繊細な技と才能にひれ伏すのです。
 日本画と油彩画の違いは構図の切り取り方の違いに端的に現れていると思いますが、なぜ日本画で成功する構図が、油彩画ではうまくいかないのだろう?と思ったりすると、絵の具の質の違いにもよるのだろうと考え込んでしまいます。さっきも述べましたが、モノマネをしても当然それはモノマネ以前の出来で、失敗してしまいます。でもモノマネをしてわかるいいことはひとつあります。シャガールにしろ、ルオーにしろ、なぜこの馬は空にあるのか、なぜ黒い大きな枠取りをしなければならなかったのか、画家にとって必然の白であり黒であるのでしょう。それも油絵の具ならではの厚みを持った色でなければならなかったのでしょう。
 ゴッホの描いた荒れる波頭がなぜ黄色でチューブから出したまま塗られていたのでしょう。それははやる気持ち、吹く風の速さで感じる時間と、体を持ち上げる風の強さという力、つまりは「時間と力」こそがチューブから絞り出した黄色い絵の具だったと思うのです。
 わたしには美術史の教養があるわけではないのです。先人を乗り越えなくてはたどり着けなかった「風景」(風俗・社会)や「人」(文化・政治)があり、幸いなことに20世紀までの絵画がネットの世界ではパラレルに見ることができる時代にいるということなのです。



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